新田抒景(新田ジョケイ)・・・神野三郎追悼文

 ・神野三郎伝から引用してます、戦前の神野新田の様子が鮮明に書かれてます

 ・「新田抒景」が書かれたのは昭和38か39年、森清治郎氏は43才頃、神野りきさんは83才頃

 ・神野を「ジンノ」「カミノ」のどちらで呼べばよいかの悩みも書かれている


 今年五月、楓の若葉の反映を御部屋一杯に受け、御元気なおばあ様と対座して、肖像画を描かせて戴いて居りました。

 「どこぞというでもないのに、奇妙なこともある。どうも顔がむづがゆくなって来る。居眠も出るし......」「そうそう今朝はお茶を呑んどらなんだ」「どうです、あなたも一服」 モデルの心得を持つ私も、御相手がおばあ様ゆえによけいに気づまりを覚え、何とかこの障害を除くつなぎの為にも、新田の歴史と共に歩んで来られた、おばあ様にお伺して、私の朧気な記憶をこの際決定的にしておきたい願い、それは充分に絵筆を忘れて聞き入ってしまう程でした。

 少年期直接父母に問い正す知恵のなかった私にも「ジンノさん」という特定の響は、太陽の様に心にしみ渡って居りましたのは事実で、現在も生々としたおばあ様から物語を伺って居りますと、先祖の霊の供養の場に敬虔な頭を垂れて、おのが生の血潮をはっきり認めるよろこびを持ちました。

 晩年のおじい様にしかお目にかかれなかった私には、長い間につちかわれた、私の位置をしるさない限り、どうにも前に進めない気が致します。

 もう今では個人的な亡き父母の回想も、新田を私なりに肌で感じた、おいたちの日の抒情中の一点景人物にとけこんでしまっている様に思われます。

 小学2年(昭和3年、1928)の頃、木曽川べりの父の在所、海部郡八開村江西にともなわれ、その門から見える西どなりに、蓮田をめぐらし鎮守の森の様な一画が「ジンノさん」の旧宅だと教えられ、丁度霧島つつじがまぶしい程に咲いて、モールのついた大礼服の見あげるばかりの銅像が立つ庭の奥に、武家風な広い玄関がぽっかり口をあけ、「ああこれが父の仕える主人の家跡」と、おそるおそる遠まきに眺めて帰りました。

 長男の父が十九才にして、何故この地を捨てて新田開拓の仕事に加わったか、その真情は遂にきかずじまいになりましたが、その際目に覚えた、所々砂丘を持つ新田と同じような土質の田、木曽川の堤のしみ水が、水量にたえかねてふき抜け、意外に思われる程の白い噴火口の様なきず口をあけている、水害跡のすさまじさを今だに生々しく思い返します。

 母の在所は新田のとなり中村、牟呂用水を覆う程に成長した私の家のいちじくの樹に登ると、そこが昔の海岸線であったことをはっきり示す、白く晒された貝殻ばかりの土の上に屋敷が望見出来ました。

 そしてそこには、私には当時承知出来なかった、私が行くと「もおりのが来た」という一族が居りました。

おばあ様の涼いまなざしは、遠くに想をはせ、「あんたが識らない、お父さん達の若い頃の話をしてあげよう」とにんまりして私を御覧になられる。

 生まれて始めて両親の青春の場をうかがうことの出来たお屋敷は、積上げた花崗岩の上に白い壁に黒塗りの腰板をめぐらして、満潮時の市場の海に出城さながらに老松の影を映し、子供心に圓龍寺とならぶ聖地として大切なものに思われ、年を加えるに従ってその御屋敷も、あたかも工事場の様に荒れて行くのが、新田の歴史を踏みにじって行く様にたえられない詫びしさを味ってまいりました。

 はっきりと両親の青春のロマンを教えられ、なつかしむ心は血の騒ぎをよんでとどめることを知りません。

おばあ様は更に、「屋敷に勤めた者は、誰彼なしに、秋の収穫期になってこれなら大丈夫、食べて行けることを見越して、茶碗から箸まで、独立出来る状態にして一戸をかまえさせた」と語られました。

 圓龍寺建立の材木運びの筏に乗ったという父は、軒深い平屋根の八畳が六間もありそうな工事場に使用した家を、貰いうけたと聞きました。五才まで過した瓦をおいた家など稀れな、板の間にうすべりを敷いた屋内を、ランプの光と共にはっきり回想出来るのです。

 私の目にはすでに一抱えもある防風林の松の樹令からおして、新田では私など大正末期の二世に当るわけです。

「牟呂用水が新田の広闊な耕地をうるほす、その取入口に産まれ、ここでは昔の海底を示す落差は瀑布の如く変じ、その地響を体に感じて育ったのです。(以前水力による精米所もあって、村人がその水車にまき込まれた話も聞いた程です。) 

 この水門の構築現場で、工事人がする二米余も落下する小便を、面白がって私も真似、岩石の間に転落、奇跡の一命をさづかったこと、墜落についての覚えもない私にも、繰返しいいふくめられたその時の情景説明に「ジンドウセキ」(村人はこう発音した) とか「ヒモン」という言葉が経文の様に私の体内にたたみこまれて居ります。

 小学校に入った頃、やっとその茫大な三河湾の白波を縞模様にはじきとばして延々と伸びる、人造石堤に立った時、足のすくむ様な圧迫感におそわれた気持は、今だに生々しく足裏にうずく様です。

 父がその生涯の総てを、舟虫の様に花崗岩の堤防にしがみついて、目塗りの仕事、セメンをつめるに果てた想いを加えると、私の少年期の生活全部が新田の生命の中にとけこんでいる様です。

 新田の四月頃は、「菜の花や月は東にひは西に」の句を現実のスケールでとっくりと味わえるほどで、朧夜は蛙の声のみ天をつんざき、冬中の土の香にとって変るに、したたる様な青くさい草液、夜目にもあかるい紫雲英田に菜種の花の甘さも混ぜて肺臓をみたします。

 村の屋根々々は地靄の中にやすらいで、繰返される激しい労働を前に、南無阿弥陀仏とよなよなの読経に、御陀の御力を信じ切っている様な平穏な眠りに落ちいる。

 まったくこの頃になると、暇さえあれば老人を先頭に、仏に仕えることに精進するのです。

「オットメ」と称して当番制に家々を巡り念仏の練習会があり、役の家ではオツトメの前後に駄菓子などごっそり盛こみ雑談に楽しむ只一つの娯楽をかねた社交の場でした。

 この宗教政策をさすがと判断するのは後のことで、子供日曜学校が圓龍寺にあって、只経文だけを暗じさせられました。

 私も父に鉄拳をくらって、一度だけ出席したが以来そのことでは父を嘆かせたものです。

学校ではめっぽう生意地のない連中が、その経歴の順に大悪童に変り、教僧の目をむいてなだめるのを面白がり、「ゴロスケホーコ」とはやしたて、あたかも子燕が餌をもらう騒ぎに似て、大口あけての大合唱も何のことかさっぱりな経文に興味の覚え様もなく、只それをつとめることによって、いくばくかの菓子が与えられる事を期待し、しびれを切らせての苦闘は私を呆れさせた。

 御堂の金色も私にはなじめずに、父母のうやまいの物語に聞かされるジンノさんの肖像額三面程を、この世のものと覚えこんで来た位のものでした。

 お花祭(釈迦の日)が近づくに従い、このオツトメがきびしくなって気弱な私は戸迷うばかりでした。

新田の活気は用水路の水のかさだけで、生活の脈搏をうかがうことの出来る程で、苗代時になると冬中川底をみせた上には、春の陽光に一勢に芽立つ肥った雑草に覆われ、そのままはちきれそうな澄んだ水を冠って、毛だった葉や穂は、水銀の様な気泡を持った姿で久しく流れにゆれる。

 産卵期の川魚が流れに逆らって喜々としてやって来る、防風林の松は黄色い花粉を川面に縞となって舞う、野茨には蛇がごった返して愈々その香をまき散らします。

 はしかっぽい熟麦を刈穫る、菜種は揉む、ジャガタラは掘る、田の代をかいて肥入れと、まったく梅雨になると綿入れのはんてんもとはす程に濡れそぼけて、夜の目も寝ずに歯を痛めるびっくりした労働に襲われるのでした。

 田植ともなると街に嫁入りした者、奉公に出た者、農繁休暇の学童まで繰込んで、一面にのべた田面は、燕の数程に色彩をそえた大騒動の数日になります。

 やがて区画の正しさのままにひろがる早苗田は、まぶしい七月の太陽に浮き出して、村人の誰の胸にも満足と誇らしさをうえつける光景を展開するのでした。

 田植休みも綿のように疲れた体躯を、あけっぴろげた家内を吹き通す早苗風にうたせてのうのうと寝そべる位が御馳走で、僅に町から入る掻氷屋の鈴の音にはじき出た子供らが、労働に参加したねぎらいの小使をつかう位のものでした。

 併し折よく表浜で曳網にかかった、荒砂にまぶれた、あぢ、さばの艶やかな味は、この季節の新鮮さを印象づけてくれました。

 日曜日半休のふれが出されるのもこの頃からで若い村の団結を他村に誇らしく思ったことでした。

川藻は充分に成長し、たて髪の様にふさふさとゆれて川面を乱し、葦もすっかり伸びて、よしきりは日がな一日くぜりを忘れなくなります。

 そんな川添の家々では、赤そぶの浮く井戸水を捨てて、直接川底に食器を沈め、口をあけた鉄釜にふやけて残る飯粒に小魚が群をなすのです。

 藁屋根にからむ青ずっぱい松葉を焚く煙を嗅ぐと、田の草とりの暑さに負けて、中食時の僅の憩を教えられた様に覚ています。

 稲も背丈をのばし、除草も眼を突かれる頃になると、沖の荒地からまったくよく熟した西瓜、黄瓜が獲れ、朝まだき街の青物市場に繰出す牛車手車が、私の家の裏手の坂を追あげる轍のきしみがひとしきり続くのです。

 そのかそけき音色は、目醒のオルゴールにもたとえられましょうか。

蒲も川藻ものびきって水路を塞ぐ、藻はかきあげられて堆肥になる醗酵を道端にさらし、蒲は海と同じ様に吹きつける北風を防ぐ垣根の為に村人は競って刈穫り、堤にならぶ防風林の松の根方をくるんでたばねられ、その乾の色彩と歩調をあわせて秋はやって来るのです。

 そんな手間仕事は稔の秋の前の僅な閑を教えられました。

こんな間隙をまってましたとばかりに、市場の港座に芝居がかかるのです。

 顔見世の役者がおどけた扮装のまま人力車に曳かせ、幟旗竿にまつわりつく子等を配して、厚い青畳とひろがる田面を切る様に移動して行くのでした。

 稲が鈴花をつけると水路の水かさはぐんと落される。

港からの焼玉舟のはじける音がよくとおり、紫苑の花ぶさが家々の軒先に高々と抜け、赤蜻蛉が翅をひからすのです。

 紺飛白(こんがすり)をさっぱりと着こなしたお針娘が嫁入仕度に街の仕立屋に、いそいそと通うのもこの頃で、海苔もや(粗朶)が入ってこの閑をも奪いとる騒動は、実に昭和も四、五年からではなかったでしょうか。

 忘られない台風もやって来ました。

予報も確然としなかったのか、風雨の激しさにおののいて、家を捨て、位牌と手廻品だけ背おった父と同郷人らしいナマリのある知人が沖の方から続々私の家に来て、南の雨戸を閉ざした薄暗い家にごった返し、突然の賑いに風雨の恐怖も忘れ、台風一過やれやれと軒に出る一同の目にまばゆいばかり虹がうつり、風に白く萎む葉に裸にされたいちじくの実の梢々は、一きわ甲高く椋鳥が群れ騒ぎ、村人の安らぎをよろこぶはしゃぎの心を象徴しているかに思われました。

 こんな時こそ家に居たためしのない父が、濡れしょぼけた棕櫚の蓑に身をかため、興奮した口調で堤防を越す波浪の強弱を、その眼にしたままを皆にふれて居りました。

 堤防の工事仕事に終始し、野良仕事に余り手を借さない父の姿は、襟に白い字で神野新田と染め抜き、背中に白い丸にモミヂの紋の紺地の印ばんてん、紺が汗の腿に染めつく程の股ひき、紺のはばき、そして地下足袋といったいでたちでした。

 それが又ジンノさんに祝事があると新調のはっぴの紺が鼻をつくと同じ位に、呑めないのに真赤な顔に酒気をただよわせ、その手に折詰でもあろうものなら、変化に乏しい食膳は稀な賑をていし、父の慶びに引き入れられたことでした。

 夜半を期して防潮演習のあった折など、そのおしきせに、やっぱりモミヂの印入の提灯をかざして飛び出す姿を、おののきの中にも頼母しく見送った覚えもあります。

 用水路はすっかり水を切って、又々川底をのぞかせます。

くれはやる大空を海に向って渡って来る五位鷺の大群のどん欲な乾いた声を聞きながら、仕事は夜なべまで持ち込んでも尚たりない、米を俵にする迄の期間は、まことにせつない忍耐をせまられます。

 祭のあとに忙しさがある様に、この時期は子供心にも不安のしこりをのこします。

検見(けみ)、坪切り、そして年貢の高を査定する、今日の税金申告どきさながらの臆測流言が村中をおおいつぶすのです。

 寄合のふれの鐘が撞木もつぶれよとばかり打たれ、村人の緊張をそのまま代弁する様に鳴り渡ります。

年若い姉達だけが労働力の私の家の事情は、余計に私を気弱にさせたものか、今だにその折の情景と、一つの検査員の顔は眼底に焼付いた如くに残っています。

 俵の腹を割って、よく使い切ったための鈍い光をもつ鉄の細長い鞘物を突きさし受取った米を掌にころがして一瞥し、又俵に移しながら生米の一、二粒を口にふくんで噛みくだいてみるのです。

 混合の不正を予期してか又別の所をあらため、紫だの、赤だのの大きなスタンプを、雨の日や、夜なべにと父が暇にあかせて編みだめた新しい俵に押して行く、その冷ややかさは、初摺の手伝いに米の山に長時間足を入れていると、脳髄を不快に襲う冷込みと同じ位に私にはつらかったものでした。

 村随一の赤煉瓦でつみあげたバカでかい農業倉庫の前に私の家があるだけに、年貢おさめの日の狂騒は身に沁みています。

村中の人と牛車がたてこんで右往左往する姿が、繋がれる牛の角で、大きな風穴をあけられた私の家の槇垣からうかがいしることが出来ました。

 その混雑に油をそそぐ様に、雄牛が雌牛を呼ぶ咆哮、その体臭もみたして極るのです。

年貢をおさめた残り高は胸算用で、借金や肥料代が支払われ、そして迎える旧正月の祝品までに影響するのです。

子供らの下着やらゴム靴がととのえられるのもこの時季で、恰度小学校でも学芸会が催され、同じ新調の小学生が急造され、先を競う小便所では、日頃手馴れない堅さのためか粗相も多いことでした。

 こんな情景は、新田に電気がともった昭和も初期のことで、ばっと輝いた電光程に回想は生々しく刹那的に過ぎるのです。

 

 「新田はまったく変った――」と、おばあ様はおっしゃられて、深く遠くを御覧になられるまなざしを複雑でむつかしいと、私は絵筆をおいてしまうのでした。

 おばあ様の想いと比べ様もない私もその変貌に驚嘆するのでした。

現にこうしておばあ様の前に座している私の位置すらそれを証明しているように思われます。

 新田では数えて五人目位に私も街の中学に入り、遂に東京に住む出郷者となったが、物心の平穏をさすがりに帰省することが多かったのでした。

 折も折一番被害の甚しい戦争によって生命をもてあそばれた同窓生が、終戦を境に「よー無事だったか」と肩だきあう頃、東京の飢にたまりかねて帰る私にまで「おしも来たか」と呼びこまれ、はらからの地の如何に大切なものかを教えられ、同窓の霊を一同よってとむらい、又どぶろくに幼い日の心をあらためて結びあったり、調子にのって同窓雑誌までガリ版ずりにする騒ぎでした。

 私より先に父親であり家長にのしあがっている姿は、当然ながら驚きのまなざしにしみました。

私も内職仕事にみきりをつけて絵筆一本でたとうと決意していることを心配してか、この頃になって、「三郎さんに会ったら」とか「太郎さんの所へ行ってみたら」といいふくめられました。

 この言葉は、そのつど私を魂消させました。

これ迄の私の心には、ジンノさんとは村の形体を呼ぶ中心的代名詞としてのみ腹に据えていたし、事実ジンノさんへの畏敬の魂は国家意識などと大それた主義を持合せようもない、おいたちのうちに密接にそだてられて居りました。

 これまでに新田の象徴の中のジンノさんが、個々の御姿として私を打って来たのは僅かに次の二件位のものです。

 父の危篤の床につどう見舞客から次々伝わる「ジンノさんの侍医が今に来て下さるげナ」とこの場合絶大な力を持った救命主ででもあるかの様に蘇生を信じ切って五月の夜の白むまで待ち侘びたこと、又おばあ様の見舞を受けた悲嘆の日の母の上気した頬につたう感涙の様を、物陰から伺った回想は電流の様に私の頭の中を馳けめぐり、何事も父母を尺度としてはかられ、私の一度も口にしたことのない「三郎さん」と特定の当主にそそがれた時は、そう気易く言う相手方を怖れとがめたい程にうろたえ、そんな無礼者になってはならないと固辞の態度を強くしめし、話しかけてくれる身内友人を手こずらせたものでした。

 併し反面、百姓者らしいさっぱりした親近感で呼ぶ「新田のオヤジサンに会うに何がわるいか」というなつかしみの口調に甘えて、一度は是非お目にかかってみたい、そして亡父母の生の日のあかしを少しでも伺えたら如何に大きなよろこびになるだろうかと、心中に加る熱のあつくなるままに、おそるおそる御供にしたがったのでした。

 「昭和二十八年九州旅行の途次豊橋に過した私は、「太郎さんはナ、文化人で芸術にも深い理解があり、特に音楽はクロウトはだしだそうナ」との予備知識をきき、義兄二人にともなわれ恰度新田の事務所に疎開中のお宅に上ったのでした。

 これがジンノさんと呼ぶ私の映像の中に現実のお姿としてお目にかかった最初です。

堆い書物の中から美術書を選ぼうにも近々豊橋に引きあげようとなさっている混雑にまぎれて思いにまかせないのを、大変に惜しがって気易くお話して下さるのに、義兄達の固い応答は脇を濡らすに十分で、折しも若い慶応ボーイの河合彦一君が上京の挨拶に来られ、まるで家族の一員の様に、ゆっくり紅茶を混ぜながら馴れた調子でする音楽談義とは、大変な距離のある対照で、やれやれの思いでお目どほりを終った事でした。

 数日をおかないで、同級の中村国夫、榊原朝吉の両君が自転車で「ヤイ、 三郎サンとこへ行かマイ」とさそいに来てくれました、さそいを受けた最初、この年若い青年がおじい様との関係を力説しても、私の観念では今迄の新田の歴史にはありうべからざる事の様に不安であり、いくら農地解放があったといっても戸迷いは消えず、私自体の心の掟を一つ破りすてる様なおそれを抱いたものでした。

 この国夫君の自信を、今年になって始めて知って、成程とあらためて、彼の好意を感謝したことです。

絵の仕事のことでビールなどひっさげ、久々ぶり彼の家を訪ねて、呑み助の彼が酔う程に「オレンチの家宝を見せようか」と一幅の軸物をとり出しました。

 一目でそれは美しいと思う書体、先代金之助翁が開拓当時大工にあてた書翰の一部でした。

少年の頃より能筆の彼は「新田ツ子には家宝だら」と自慢しながら次の様に話をしました。

 二号の樋門で海苔仕事の疲れをいやすべく、水番小屋に遊んでいると、皆が鼻紙の代用にしている古帳をまさぐっている間にこれを見出し、感激した彼は、表装にした機会に、おじい様にお見せした由、その時、「こんなものを大事にしてくれる青年が新田にもおったか」と大変なよろこび様で、「爾来俺は三郎さんから大事にされ、ふつうに話が出来る様になったのだ」と彼は胸を張るのでした。

 私はおじい様と新田ツ子の愛情の合致点が共通していることを知り、新田の精神的うるわしさをよけいに味わった事でした。

二人は先ず八町のお屋敷に私を案内してくれました。

 友人らも電車道をへだてた反対側の魚屋でそのありかを聞いた程ですから三人共、生れて始めての訪問でしょう。

 おじい様が柳生橋の豊鉄本社に居られること伺ってまだかたづけ終らない焦土の道を車を馳せました。

おじい様の居られる応接間に通され、始めて見るおじい様ののびやかな身体と親しげなサビのある御声に接し、又友人らの百姓らしいぶっきら棒の挨拶も百も承知しきった様に、あれこれ新田の消息をたづねられる、新田の父なるお姿を拝して一人の感激を覚えました。

 固くなって紅茶に手も出さずにいる三人の状態を、全くのみこんで「サアおのみおのみ」そして更めて私に又「清一の息子か、ヨーおおきくなったもんだ」―ありし日の新田の回想がかけめぐっている様なまなざしに見受けられ、続いて姉達の消息もたしかめられ、画家である私に気をくばってか部屋の画幅の一つ一つを説明されました。

 その御批評は信念から、もうその価値まできめつけて居られる風でした。

「お前、それで東京でどうして食っとるか工」絵描の生活を見抜かれた様に核心に触れ、あいまいを許さない口調は、おぼつかない生活態度の私に強い反省をうながしました。

 又「太郎はお前に会った時、本家に行く様に紹介したかナ」それまで私の頭には神野家の系図ははっきりうつって居ません。

 「そうかそれはいかんで、俺が三男に紹介状書くから本家にも一度挨拶に行かにゃ」とその場を離れ、一通の封書の紹介状を書かれて、私に手渡しながら、「名鉄に行くと、企画室に三男が居るで。

 三男も絵が好きだでな、本家にも会っといで、――その時ナ、なんぞ、そうだ三号の樋門の松でも描いていくといいぞ、本家は新田の図だとそりゃよろこぶで」面接中もそうだったが現在の私のこの場の情景をみたら亡父母は感涙にむせぶことだろうと涙がこぼれそうにしている様子に、すっかり満足しきった友人も応接室を出るとすぐに、「おやじさんは何てったって偉い人だゾ、これ迄でも新田の事となると、そりゃ力を入れてくれるでナア」「やっぱしナあー」これは新田の主の開拓に示された苦闘への村人の讃嘆といったものなのでしょう。

 友人はこの行為に鼻高々だし、私も固辞したことなどすっかり忘れて、大きな精神的支柱をはっきり感じ、仕事への野望が沸き返える思いでした。

 それからの私は普通なら茫々とつかまえ所のない新田風景を私ならではの愛情と信念を持って、楽しく描きまくったのでした。

 現在の様な風景画の手法を身につけたとすれば、実にこの時期であることを恵と思い暮らして居ります。

私は四号の樋門の石垣を克明に描いて、当時その出来に満足しきって、名鉄に乗り込みました。

 名古屋の叔父も私の本家行を報告すると心からよろこんで、私の貧しい服をぬがせて、息子の新調服を借し着させて力づけてくれました。

 名鉄の木造事務所の二階に登り、部屋をたしかめ、入口に立って案内をこうと、受けて立って下さった方が、めあての三男さんその方で、その行動的眼差しから、奥深く席を求める手続の面倒臭さから救われたことも加わって、その瞬間から名鉄は素晴しい会社だと思い込んでしまいました。

 父から連絡があるまでの間と、恰度御父様と御二人でアメリカ視察旅行から帰国された折だったのか、自からお撮りになったニューヨークの美術館内の名画の写真を大量にみせられ、私には兄位に思われる年近さに、気易さを覚え、すっかり話し込んで居りました。

 その折又「私の東京の義兄を紹介しよう、東京できっとあなたのよき理解者になる」と、三菱銀行の三吾さんを教えられました。

 やがて連絡があって、「では父の所へ」と二十畳程もありそうな応接室に入ると南の一角に席を置き、今迄ワイシャツ姿で事務を取って居られた、人品うるわしいお方が、「ああ、これが金之助さんと胸の中に何度もたたみこむ程に眺めました。

 「しばらく失礼を」と言われ上衣を着用し、威儀を正してから、「サア」と直立のまま私をまねいて下さいました。

 そして私の礼に対し、「清一の息子か、よくたずねてくれた。」と言われて席をすすめられました。

この時程、 人間の価値ということを教えられたことはなく終生忘れられない想い出です。

 こまごまと質問を受け私は、その頃夢の様にいだいた巴里行の欲望をもらすと、「はっきり実力をつけてからにしなさい」と一言のもとにきめつけられ 慌てたことも想い出になります。

 あんのじょう四号樋門の絵は、瞳を涼しげになさって、よろこんで下さいました。

私は匇々豊橋に帰って、八町のおじい様にその首尾を報告に上る時、二号堤防よりのシユンセツ船が煙をはいている絵を持参いたしました。

 それは久しく御部屋にかかげられ、帰省する度に今日ある自分を教えられる思いが致します。

 

ジンノさんと言う呼び方がやっとこさとカミノさんと言ってもしっくり言える様に変った頃は、その数多い系図まで心得、さてその御一人に対した時、何と他のお方を御呼びしてよいか、舌足らずの私は冷汗をかく始末です。

 私は年令的にも一番胸中を披露しやすいと思うことから、巴里行の嘆願文を原橋十余枚にまとめて名古屋の三男さんに差上げて、或る日帰郷して八町宅に上ってみると、その嘆願文は回覧されて、おじい様から、返事の様な言葉「本家では、豊橋でと言って来た」と承った時は、筋を間違えた事に恐縮してしまったことでした。

 しかし又おばあ様は「東京の三吾から口添えがあってな」と言われ、夢が正夢になって私は雀躍したものでした。

 当時商工会議所の会頭のカミノさんは、この私の無謀に近い夢を吾がことの様に、実現させようと懸命になって下さいました。

 そうした或る日、おじい様とおばあ様は「太郎が小さい時、大変な熱を出してオマへのオフクロが夜も寝ずに看病してくれた」と話され「こんどは太郎がアンタの面倒をみるとそれは一生懸命だ」と私の識るよしもない昔の事実を承って、勿体なさに全く言葉もなく感動したことでした。

 カミノさんが御留守の時に、八町にお伺いすると、おじい様が紺の前だれをしたまま、玄関に立たれることがあった。(おじい様はたちの高い天井と緑の正木を愛されたことをおばあ様から伺ってからは、一層質素な御姿が印象的な親近感を持って浮びあがってまいります。)

 「ナンダ、森か、おあがり」と応接室に通されました。

「どうだい、ちったあ金が集ったか、」「巴里へ行くと絵が上手になるのかい」「それで帰って来ると、少しゃあ偉くなって、めしが食べれる様になるもんかエ」と。

 無計画に、只熱に浮かされている時の私には、実際的に事を割り切って言われると、グウの音も上げられず、言葉につまり、その無謀さを何度反省したかわかりません、すっかりもぢもぢしている私に、「用件はそれですんだか、それではお帰り」私が席を立ちかけると、「おい、おい、お前、その御菓子を食べないのなら、ポケットにでも入れてゆきなさい」「いいか、お茶に御菓子を出すのは、客に食べてもらいたいと思って出すのだから、食べないのならちゃんと持って帰る位にせにゃいかんぜ」と教えられた。

 私は又席について、カリカリと音をたてるその菓子の包装紙になほのこと肝を冷しながら戴いたものでした。

併しおじい様の御蔭でこういう場合、何時も戸迷うことが、すっきり洗いおとされる様な思いがし、それからは何処でも応接に出されるものは、この時の一瞬がよびもどされて、「いただきます」と一礼して安心してすごせる様になりました。

 その後、私の巴里行の為に皆様鳩首協議して心配して下さっている席にも、おじい様が顔を出され「一体、何時までくだくだ言っているのだ。

 理由ははっきりしている。

金をあつめることを、てきぱきやらんと行けやあせんぞ」とおしかりを受けました。

 二年もかって1957年暮に乗船の日取りも決った、ある日八町に一泊した私は、朝「何でも折目をつけにゃいかんで、三郎が言ったと言って市長の所に挨拶に行っといで」と当時言われるままにした事が、今日になって泌々と筋道が解って来た気がいたします。

 「私の歓送会の席の、おじい様の柔いだお顔をひときわ勿体なくながめました。

豊橋駅頭迄御見送りを受け、誰よりも大きな御声で「バンザイ」を叫けばれ、「お前の帰るまで元気でいきとるからナ」と言われたことが滞仏中も耳にのこり、翌年五月、約束通りの日時にカミノさんを巴里に御迎えし、数日を共にして、ベルギーにお見送りしてしまうと、あれこれとおじい様の御心中がしのばれ「心配をかけている息子」と思う反応がじかにおじい様につながる気持となって、お姿をしのびつつカミノさんと過した一部始終を、今迄の虫眼鏡でのぞく様な字を捨てて、思い切り大きな字で書き送りました。

 私が帰国の挨拶に上ると、「お前も帰ったし、これから大橋の渡ぞめまで生きにゃ」と言われたことも忘れられません。

 そんな頃の或る日、八町の食堂にお顔を出されたおじい様は、「ヨーオ、森か」と実に若々しい挨拶を受けたもので、又、「一体お前どこに寝かされとる、仏間、そりゃいかん、としより夫婦は目醒めが早い上に、毎朝大声で阿弥陀経をあげるでな。

 どうだい、おれ達の二階にしたら」と言われました。

おじい様の読経の御声は、私には新田の回想をあおり、敬虔な気持にさせられたし、おじい様のおそば近く枕する時は、亡父母の顔にまつわる新田の誰彼の顔も浮び、時の流れが切ない程に押しよせて来て、これ以上おじい様の頭の上の二階に寝るなどとんでもないことに思われました。

 先年、三浦さんにビュックを運転して戴いて新田に用たしに出たことがあります。

新田の風景が展開すると、反射的におじい様のお姿がしのばれる三浦さんが「おじいさんは何って用はないのに、新田を見て廻るのをよろこばれてねー」「こんなことがあったに。三浦ちょっと車をとめろ、あそこの門に車がとまっとるけど、新田でタクシーがとまっとるとは余程の事だぞ。何ぞ、病人でも出たかナア、今でこそ車なんかザラだけど、その当時はね、やっぱしそこに不幸があってネー。おじい様の眼力には吃驚した」と一段と眼をまるくして話されました。

 新田にそそがれた全身的愛情のおじい様の御姿を、そこにまざまざと見る思いが致し、私には新田に育ったよろこびが、つきあげてくる思いがいたしました。

 私の名鉄での個展の日、おじい様の御逝去のしらせを受けてかけつけ、新田の父にふさわしい、けだかくも美しいなきがらを拝した時は、私には二度目の父の逝去に遭った衝撃がこみあげてまいりました。

そして遂に阿弥陀経一つとなえられない新田の異端者を只々、申訳ないと心に繰返しておりま す。

                            【洋画家 (光風会会員)、神野新田出身】


神野三郎さんの車はビュック(ビュイック)とあり、たぶんこれだろうと思われる1953


森清治郎と作品


森清治郎の父親の生家が八開総合福祉センター辺り、左上の森が神野家旧宅跡