日誌が書かれた明治45年と前後の計3年間の年表
明治四十四年(一九一一)
・一月九日、福寿火災保険会社が設立、初代金之助が社長、四代重助重慶が取締役、二月二十四日開業
・一月、神野新田信用組合、有限責任神野新田信用購買組合と改称
・二月、神野家・富田家が寄進の東本願寺勅使門(菊の門)の落成式
・三月三十日、四代重助重慶が名古屋商業会議所工業副部長に就任
・四月八日、福寿火災豊橋代理店、神野三郎開業広告(新潮報)
・四月二十九日、産業組合中央会より事業成績優良のため神野新田信用組合は表彰される
・五月十七日、三州倉庫設立、神野三郎は取締役
・六月、伊勢の犁谷(からすきたに)山林五〇〇町歩を買い入れる
・六月、初代金之助、明治貯蔵銀行頭取に選ばれる
・七月五日、神野三郎、豊橋市大字東八乙に移転
・七月、前年設立の愛知電気鉄道との合併交渉が起きる
・八月四日、暴風雨で堤防・樋門は無事だったが倒壊家屋五郷は二三棟、三郷は不明だが相当数、養魚池、
作物、水路の被害多大
・八月六日、初代金之助が 八月四日 の被害を現地より重慶に報告
・八月三十一日、重慶が避暑(箱根?)の帰りに新田事務所に宿泊、翌九月一日に新田視察
・九月二十五日、名古屋製陶所が創立され、四代重助重慶は取締役に就任
・十一月五日、四代重助重慶が神野新田で、新田遊覧(鴨撃ち)を主宰し偉い人を招待
・神野新田農事試験場(現在はしけんばと呼ばれている様)を廃止し農事奨励員三〇名を委嘱
・神野新田養魚池三六町歩新設
・三郷処女会設立
・服部長七、七二歳、岩津天満宮本殿の再興を果たす
明治四十五年・大正元年(一九一二)
・一月、神野新田信用購買組合は新たに販売部を設ける
・一月二十七日、初代金之助、菱池新田と神野新田開拓の貢献で藍綬褒章を授けられる
・三月三十日、児島湾干拓地工事の藤田伝三郎亡くなる、藤田組がそのまま事業継承する
・四月二十日、圓龍寺で宗祖六五〇回忌を催し、大谷派本願寺大谷光榮伯下向
・六月、神野新田耕地整理第一期工事完成(二回地区一七九町歩)
・六月、神野三郎、愛知県信用組合連合会の理事就任
・九月、 大暴風雨の被害甚大、大稀有の大凶作
・十月十五日、神野三郎著の神野新田誌が刊行
・十一月七日、四代重助重慶、戴恩会(尾州徳川家ゆかりの人の会)の理事になる
・十一月二十八日、四代重助重慶、東本願寺維持財団参議員になる
・神野新田は農事指導員を設け先進地の視察に派遣
・圓龍寺の山門建立(4/20に間に合うよう建立された)
・新渡戸稲造博士ら新田を視察
・軍隊の厩肥人糞尿の払い下げを受け、小作人に実費の一/三で売り渡した
・神野三郎の伯兄、竹田鋹太郎が蒲郡海岸の塩田を買収
・藤田組が児島湾干拓地の一区と二区の内の一、二三〇㏊を藤田農場として経営、神野新田が一、一〇〇
㏊なので面積では藤田農場が一番だが、時期は神野新田より十五年遅そかった、しかし個人で一、〇〇
〇㏊を超える個人の新田開拓と経営は、日本では神野新田と藤田農場だけである
・木曽三川の分流工事が完了した
・神野新田誌には現在、住人戸数約二九七、人数凡そ一、六〇〇人と書かれている
・神野三郎伝にある神野三郎の言葉で「大正の初めころに本家がカミノに改称したので・・・」とある
(カミノ姓に関する三番目に古い情報)
大正二年(一九一三)
・二月十一日、石部太助を模範小作者として県表彰
・二月、四代重助重慶、葵町新宅の地鎮祭を行う
・三月十五日、財界に中央信託株式会社の議が起こり、四代重助重慶が加わる
・四月、香川県や愛知県知事が新田視察
・六月十四日、神野三郎、尾三連合会総代に当選
・六月二十七日、名古屋、東海両倉庫の両立協定を四代重助重が仲介して円満妥結をみる
・六月、初代金之助、財団法人愛知育児院理事となる
・七月一日、上遠野富之助が南久屋町の神野邸の北隣に家を建て、引っ越した
・十月十六日、四代重助重慶、葵町新宅の上棟式を行う
・十月十七日、四代重助重慶、名古屋市会議員二級選挙で最高点で当選する
・十一月三日、四代重助重慶、名古屋市会副議長に就任する
・十二月二十八日、四代重助重慶、名古屋倉庫監査役に就任する
・ 初代金之助、東洋紡績会社監査役となる
・神野新田は第二期耕地整理に着手
・馬蹄形手押除草機(コロ?)、足踏脱穀機を導入し、正条植えが定着した
・小作者の転退少なく、ようやく軌道にのる
・豊作にて二万三千俵の収穫
・堀抜井戸を各戸に設けるよう奨励(これまでは八軒で一~二本)