昔の神野新田

新田抒景(新田ジョケイ)・・・森清治郎が書いた神野三郎追悼文

 ・父の森清一は江西の神野家旧宅近く生まれの長男、開拓当初から神野新田の開拓にかかわった

 ・イノ割の農協横に住み、欧州留学に当たり神野三郎の口利きで神野家の援助を受け、以降親交があった

 ・ここをクリックで追悼文にリンクします


新田抒景の内容

 ・戦前の地主と小作時代(検見、坪切も出てくる)の人々の暮らしや、当時の新田風景が書かれている

 ・追悼文ではなく思い出文です(三郎さんとりきさんを「おじいさま、おばあさま」と書かれてます)

 ・父親の清一が着ていた袢纏を再現してみたものが下記の画像です


▶ 森 清治郎(もり・せいじろう)

                                 1921(大正10年)−2004年

 神野新田イノ割の生れ、東京美術学校・図画師範科を10年かけて卒業(左大腿部カリエスにより闘病生活を余儀なくされる)、寺内萬治郎に師事、裸婦画、風景画(建物)を鋭意制作、光風会展、日展等多数入選、南薫造賞、1958年、1959年、1986年、1989年 欧州各国へ (フランス、スイス、イタリアなど 藤田嗣治、荻須高徳、保田春彦等と親交を深める)、石仏と民家の作品が人気 三越、日動、大蔵省絵画部等の個展で高い評価を得る。(当初の欧州へは神野家の援助による)

 寺内萬治郎の人格にふれて裸婦に熱中したが、当時はモデル探しの困難さなどで20代後半から画風を大きく転換する。

 渡欧以降は建物、特に裏通りを得意とし厚く塗りこんだ独特の描写が評価された。

その後、急激に消滅していく日本の自然を題材とするようになる。後半は古い民家を滋味あふれる作風に仕上げ人気を博した。